BLOG
2017.5.3

少年がミルク「CURTAIN CALL」MV解説

こんばんわ、codomomental(W)です。深夜です。

 

前回の記事(少年がミルク「CURTAIN CALL」MVについて)から少し時間が空いてしまいました。毎日に追われて追われて気づけば寝ていると言う日常でした。

 

少年がミルク「CURTAIN CALL」

 

はい、このMVについての解説。前はそんなつもりで書き始めたのに気づいたら色付けみたいになっちゃって…とても思い入れの強い作品なのでまぁそれもいいかと思ってそのままにしてましたね。

 

解説したいと思います。

 

解説と言うと作品の色そのものを壊してしまいかねないわけなんですが、それでもこの作品を通して”少年がミルク”と言うアーティストの面白さを感じてくれるといいなと僕は思います。

 

まず第一前提にここは簡潔に言うと「死後の世界」に近い世界観です。近い、と言うのは死後の世界など見たことがないので、コドモメンタル的な死後の世界と言う所でしょうか?

この世界には、現世(実世界)で上手く生きられなかったものが集められます。ただ”何故”集められるのか?上手に成仏する事が出来ない的な意味合いです。とても簡単に言いますと。上手く生きられなかった→かと言って上手く成仏も出来ない→このMVの世界観、となっています。

 

これは実際にコドモメンタルINC.所属のアーティストやスタッフ皆が当てはまる事なんじゃないかと思っています。決めつけてるわけではないけども、音楽にヤられてステージに魅せられて自分もそちら側に回ってしまうと言うのはある種そうだと思います。合わせて、本当にコミュニケーション能力が欠如した人間だらけなので。かと言う僕自身もコミュニケーション能力がちゃんと備わっているかと言われたらかなり怪しいと言うよりも、備わっていませんね。

 

ただ、そうしてしまうと、この世界観の中で色んな役柄があるはずなのに、誰もそれが出来なくなってしまうので、僕とぜんぶ君のせいだ。の一十三四(よっつぁん)は、この中途半端な世界と所謂あの世的な所を繋ぐ番人と言った所でしょうか…

小躍りしています。

 

監獄として見たてたら監獄長とその部下(冷酷)みたいな感じですね。でもこの2人は決して悪人ではありません。そもそも”悪人”と言う概念は存在しません。漠然と物語の中では悪い人のように見えますが、この2人の役目は一日でも早く一人でも多く「出来損ないを成仏させてあげる事」なのです。

 

これもコドモメンタルINC.が表現したい事の一つですが、善悪は環境や状況によって圧倒的に変わってしまう、と思っています。誰かの正義は誰かの悪意かもしれません。そのどちらかに自分が立ってみないとそれが善悪なのかはわかりません。

 

さて上手く生きられず成仏も出来ない系の者たちは、それぞれに設定が細かくあります。ここに少し記してみましょうかね。あ、主人公の2人以外の人を紹介します。

 

ましろ / 必ず足の出し方間違えて転ぶ
とがれ / どんな時でもパンの耳を出す
めね / 昇竜拳的なのずっとしてる
しだれ / 影分身の達
小町 / トイレットペーパー切れない
艶奴 / 右側こわい
子子子 / 傘さして雨をずっと待つ
あやの / ぬいぐるみにお母さん役やらせる赤ん坊回帰
水谷和樹 / 常に左側に引っ張られている
RISA / 体が左に傾いちゃう
あんみつ / ずっと作り笑い顔浮かべてる
ハヤシタカヒロ / 動けない

 

この配役の設定に関しては説明してたら途方もないので割愛します。ご自分の解釈で構いません。ただなんと言うか、ちゃんと当てはまっていると思います。色々。

 

そして物語の主人公となる者、如月愛海演じる女の子。

彼女は、皆が必ず受けている”印の検査”を受けられません。こうしてベッドのような所に寝かせられているだけ。あの印は「薄くなったらこの場所から成仏出来るようになっていっている証拠」だと前回の記事で書いたような気がします。書いてなかったっけ?覚えてないや。笑

 

ギターソロの感想部分、ぜんぶ君のせいだ。やゆくえしれずつれづれの面々がその状態だったりします。少しずつ、何かを忘れていくように印は薄れていきます(印が薄れる描写はましろで表現されています、同時に包帯もぐるぐるになっていきます)。

 

うん、では何故如月演じる女の子はその検査を受けないのか?

 

何故なら「受ける必要がない」からです。如月の設定はこうなっています。

如月愛海 / 自身は気づいていないがこの世界の始祖的存在

そう、彼女は始まりの存在なのです。

 

この辺りはとてもコドモメンタルINC.とも、ぜんぶ君のせいだ。ともリンクしています。この世界の中の彼女は、成仏なんてそもそも出来ない存在だという事です。それは、あらかじめ決められている事象。純粋故に、きっと永遠にこの事実を”受け入れる事が出来ない”のです。

 

だから彼女は”皆と同じように”自分も「居なくなる事が出来る」と信じています。

冒頭部分、彼女が”棺”と信じる入れ物から起き上がってくる描写があります。そこで少年がミルク演じる女の子を見つけるのですが…この時、彼女は”自分が成仏出来る”と信じて目を閉じました。けれどもまた同じ一日がやってきて、そんな中でまた一つの純粋を見つけたのでした。

少年がミルクが演じるこの主人公は、純粋を絵に書いたような存在にて、感情表現が苦手です。彼女は何かに心を開くという事が出来なかった出来損ない。でも歌だけは、歌う時だけは何故かその行為に救われている自分がいる事を感じています。

 

絶対に成仏出来ない存在は、この純粋すぎる生き物を、憧れと強烈な嫉妬が入り混じった”よくわからない感情”により好きになってしまうのです。僕がこのCURTAIN CALLのMVでとても好きな部分です。嫌いになるのではなく、好きになる、と言う部分。この人間世界でも同様に在りたいとは願っています。

 

少年がミルク演じる女の子はこの世界のルールなんてわからないし、わかるはずもないわけです。決まりごとなんてそもそも理解するとかしないとかの問題の外に存在しているので。

でもこの世界の”成仏”に関して、異常な反応を見せる(彼女から見たらそう見えてしまう)この2人と周りの空気に不安を感じつつも、如月演じる女の子の存在が支えになります。

如月演じる女の子は、少年がミルク演じる女の子の笑顔が見たくて一生懸命です。

とても喜んでくれる。その行為が何かの生命を奪ってまで手にした何か(この場合は黒い羽)だとしても。純粋とは時に狂気だとも思います。圧倒的な暴力かもしれません。誰かの立場からしたら。

 

ずっとこのままでいられたらいいのに。如月演じる女の子はそう思っています。

 

劇中に出てくる絵本は、如月演じる女の子の聖書ともいうべきもの。

この絵本は現世(実世界)にて、生きるのが下手な少年がミルクが描いたものです。絵本の中身を書き出すなんて無粋な真似はしたくないのでよく作品を観てみてください。如月演じる女の子はこの絵本を曲解しています。ただ、正常な見方なんて誰が決めるのでしょう?先に言った通り、そんなものは”自分というものがどこに存在しているか”で変わるものなんです。

 

想いは重く。でも少年がミルク演じる女の子は別のものに惹かれていくのです。まるで人生そのもののように。

そして音を共にするようになる。

満たされていくわけです。乾いた何かが潤ってくるわけです。音楽とはそのような力を確実に持っていますし、大勢の人は救えずとも、誰かは救えます。僕らがそうであるように。

 

少年がミルクが演じる女の子にはそんな縁があるけども、如月演じる女の子にはありません。

言葉に出来ない感情。

 

治ったり、満たされたり、心は変わったり。皆居なくなってしまいます。ここで言うのは”成仏”と言う事ですかね。

でも”絶対に成仏”出来ないんです。彼女は。

けれど知らない、それを。気づけない。同じ一日が待っている事を彼女は知れないんです。

 

後半部分、如月演じる女の子は棺に入って皆と同じ結末を夢見ようとしています。そうならないのに。そうならないけど知らないからそうなると信じて。

 

そんな茶番はやめよう。それがこの2人ですよね。

彼らは知っている。彼女が自分たちと同じ”こちら側の何かである”と。もしかしたらこんなやり取りは以前にもあったのかもしれない。そんな感情でこのシーンを演じていました。まるで子供が何か悪い事をしたのを叱る親のように。少年がミルクも僕も徹底的に”本質”と”虚像”を混ぜたかった。

 

正解か不正解か、裏と表、善悪、そんな曖昧なものは立場と角度によって簡単に変わってしまうんだと。世界が残酷なのか、自分たちが残酷なのか、わからない事を。其の事実だけを、少年がミルクの「CURTAIN CALL」は僕らに思い出させてくれた。だからこそ、自分たちは自分たちなりの表現をしていきたいと、意思表示しておきたかった。悪意とも取られる方法で。

 

きっとまたそうして世界は廻っていくから。

ね。

 

この楽曲で表現したかった事がなんなのか?少しは理解してもらえたでしょうか?

 

あ、そしてもう一つ。「CURTAIN CALL」のスペルはこれです。けれども、タイトルは…

CARTAIN CALL

 

となっています。「Another」の「A」ね。この世界自体がそう、アナザーと言うやつです。

 

はい。

 

矛盾だらけの世界です。あ、僕らが今生きてるこの世界は。そして残酷な事に自分たちの居場所によってその残酷さも変わっていく。どこにいたって、何をしてたって、その時その時で。逃れられない波なんてものがあるのかもしれない。けれども変わらない。

 

どれだけ貶されたって、誰に何を言われたって傷なんてつかない。

 

たった一つ自分たちが信じた表現を続ける事で、自分たちが自分で在る事は理解しておける。

 

きっとね、少年がミルクには少年がミルクの説明や言葉が在ると思うんです。でもそれは皆が知らなくていい事だと思うんだ。彼女は徹底的にアーティストだから。僕のような”そうじゃない人間”が、この世界観を何とか伝える事は出来ないかと勝手にやっている事だし。

 

でも今のこの音楽業界と言う世界に、こんな痛みを提示出来るアーティストはいない。”何かわからないもの”は人に伝わらないから単純に”要らない”んだ。この世界では。わかりやすくわかりやすく、より軽快にPOPに。耳に入りやすく考えず体を動かそうぜ、踊ろうぜと。

 

僕は涙が出る程、この作品を作れて嬉しかった。何かわからないものを演じたけども、この作品に1ミリでも触れられて嬉しかった。一生見続けて忘れない。この事実を。少年がミルクの音楽が在るからこそ、この”矛盾だらけの世界”を、そうだと認識出来ている事を。

 

そしてやっぱり抗い続けて行きたい。

 

それはダメだから。って簡単に言いたくない。考えたい。出来るだけ、今、自分たちにとって何が出来て何が出来ないのか。矛盾を承知で挑みたい。無理は理解して進みたい。

 

いつか自分たちが想う舞台に立って、皆でカーテンコールが出来るように。